菅源太郎氏についての雑感

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スレにこんなリンクが張ってあった:

703 : Classical名無しさん : 09/08/03 01:34 ID:e3UxL5n2
【政治】 “世襲” 民主党・菅氏の息子(36)、世襲狙うも落選続き「就職し結婚します」…三木元首相の孫、「有権者として政治にかかわる」

http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1248916464/

なんというか、ニートとしての格の違いを見せつけられた思いである。井の中の蛙、大海を知らずと言ったところか。現代の日本は経歴に瑕のある人間は社会から排除されてしまう。昔は東芝の社長だった西田厚聰さんとか、ソニー経由でライブドアの社長にもなった平松庚三さんとか、あるいは個人的知り合いのオッサンもそうだけど、昔は変わった経歴でも人生終了とはならなかったのだから、今の時代は歪んでいるというか、本質的に人を大事にしない(形の悪い野菜を商品にせずゴミとして捨てちゃうような考え方を人にも適用する)時代なのだなあと思っている。その時代に、議員を諦めてすぐに就職できて結婚できるというのは僥倖としか言いようがない(親のコネかな)。

だけれど、リンク先のスレの内容については無理解があるなあと思っている。

36歳で大学4年生であること

さきほど「ニートとしての格の違い」と書いたが、大学生はニートではない(あと、36歳はニートの定義から外れる)。おいらもニートを名乗っているが、生活がニートなのであって一応学籍はあるからニートではない。これはやや自虐的な書き方であって、大学生は別に恥じるべき身分ではない。

しかしスレの論調はそうではないし、別にこういう論調は珍しくない。大学生だと遊んでいるとかモラトリアムだとか、そういう風に考える人はたくさんいる。レジャーランドと化した大学が多いこともあるのだろうけど、全体的にはよくない考え方だと思う。大学の価値を多くの人が軽視しているというわけだ。そして、軽視されているなあと思うのは大学(学部)だけではなく、大学院もそうである。専門職大学院(MBAとかね)すらもそのように感じる。

そもそも論を展開すると、高等教育というのは国の発展のためには欠かせないものであったはずなのに、どうして日本では高等教育機関の扱いが悪いのだろうか。おそらく、その解は大学側だけじゃなくて、職場側にもあるのではないかと思う。例えばMBA留学をしてきた人の意見に対して「アメリカナイズされている」とかの文句を言う人がいる。ハーバードビジネスレビューなんかを会社で読んでいると冷ややかな目で見られる。これにはアメリカ的経営が日本的経営とはそりが合わない以上の溝があるように思う。

なぜなら、ビジネスには必勝法があるわけではないので、ビジネスを学ぶ最善の方法はケーススタディである。MBAコースでは様々な事例をベースに情報の分析の方法、プレゼンの方法、相手を説得する方法などの演習をみっちりすることになる。この勉強量は場合は会社で仕事をするよりハードであることが多い。ビジネスの現場で10年かかって直面するトラブルの数々を、十分に実務経験を積んだ優秀な講師の下で2年で凝縮して見渡すことになるようなものだ。さらに優秀なライバルが周りに犇めいている環境が手に入るので、よほどものすごい職場でもない限りは、MBAコースで鍛えて貰った方が有益であろうと信じられている(から高い学費を払ってでも世界中から人が集まる)。

だから、アメリカでMBAを取得するとアメリカナイズされるというのは誤った認識である。MBAで学ぶのは物事を対処する際の態度なので、計算ドリルのようにこういうときはこうするのが正解みたいな杓子定規なものを学ぶわけではない。よく東大批判でも似たようなことを見聞きするが「東大生は答えの分かっている問題を解かせればすごいが、正解がない未知の仕事をさせると案外使えない」というのは、多くの場合は的外れである。ガリ勉型の東大生もいるのだけど、多くの場合は知的好奇心が強く、自己研鑽を厭わないような人が東大に集まってくるので、頭脳労働の現場で役に立たないはずはない。学生を卒業しても一生勉強を続けていくのだから、勉強する姿勢というのは役に立つのだ。

どうも、東大生は使えないと言っている人の多くは「勉強」と「仕事」がまったく別のものと考えている節がある。関係ないものだから、仕事に入る前の段階をどれだけ積み重ねても仕事には役に立たないという見方をする。東大に限らず大学で学ぶことの意義を軽視している人はたぶん頭脳労働ではないところで働いているのではないかな。有名企業の総合職であっても、体力と根性で仕事をしている人はいるからね。

そして、そういう人が多いということは、脳筋(脳みそ筋肉)な人が職場に溢れているということでもあるのではないかな。

就職と学歴についての雑感

唐突だが、一部記事を書き直すので繋がりが悪いかも知れない。

学歴というのは日本では「学校歴」という意味で使われるのだが、その学校が東京大学だったらどうかというと、そんなのは何の意味もないことである。日本の大学の入試とか、最近感じたことだと国家公務員採用1種試験なんてのは、知的好奇心の強い人なら比較的楽に通るようにデザインされている。何かを見聞きしたときに疑問を感じて、それをすぐに調べて解決する姿勢を持っていると、いつの間にかに「教養」が身について、試験も自ずと通るというわけだ。

で、大事なのはこの物事への興味関心と、分からないことをすぐに調べて解決しようとする《姿勢》にある。名門大学の学生は、その姿勢を持っている公算が高いというのに過ぎない。そういう姿勢が身についている人なら、仕事についても能動的に問題点を解決する幹部の適性が高いのである。現時点での知識の総量なんかは比較的どうでもいい。大学なんて人生の1/4地点でしかないのだから、これからどう伸びるかの方がよほど大事である。それに、今の時代は知識をどう扱うかの方が大事になっている。大抵のことはネットですぐに分かるから、生き字引みたいな人の重要性は低くなっている。

いわゆる《東大生》ならば、むしろ学歴なんかは重視されなくても能力本意で見て貰えれば、自ずと採用されるはずである。だから学歴なんかはいらないのである。

問題は、現在の「学歴なんかはいらない」は脳筋の復権であることかな。

菅源太郎氏のNPO活動について

同じようなレスがあるので1つだけ取り出す:

50 :名無しさん@十周年:2009/07/30(木) 10:32:23 ID:LYYAUmYo0
こいつだったかな!?
国連の世界子供委員会の日本代表として参加して、
「日本の学校が行っている学生服という制度は子供に対する人権侵害である!」
ってほざいて、当時のアナン事務総長に
「君たちは恵まれすぎている・・・」って大きなため息をつかせたとか。

世界では10代で兵士にかり出されたり労役に従事させられたり、
はては売春までさせられたりという過酷な人権侵害があるというのに・・・

大抵の進学校では制服がない、あるけど着用義務がない、一応義務だがバカなことを言う教員がいないのであまり問題にならないので、どーでもいいと言えばそれまでだが、これは変な話だと思う。ソースが週刊誌とかしかないので、これは本当のことかと悩んでしまう。

何がおかしいかというと「君たちは恵まれすぎている・・・」のくだり。あるいは「世界には制服どころか私服も着れない子供がいる」というのは反論のようでミスリードである。

制服の問題はおいらは当事者ではないのでちょっと飛躍するけど、例えば現在のワーキングプアは携帯電話を大抵持っている(若年層が多いこと、派遣の仕事を探すにも携帯は重要だから生命線でもある)。これは江戸時代の殿様でも連絡を取りたいときにすぐに連絡がとることは不可能だったことを考えれば大変恵まれている。だから、現在のワーキングプアが自分たちの生活の悲惨さを訴えて、その反論として「君たちは恵まれすぎている・・・」と言われても困る。

ある人が幸せかどうかというのは、別のもっと状況の悪い人を見つけてきて「君たちはあの人たちに比べれば実に恵まれている」と諭すのは無理がある。国連事務総長とか、国連職員が本気でそう言うミスリードをしたかというと、ちょっとでっち上げの匂いがする。ソースもろくなもんがないし。

現代の日本社会は物質的には人類の歴史でももっとも恵まれた社会であるが、それは人類の歴史上でもっとも幸せな社会かというとそうでもないのだ。案外、明日の食料もままならない採取生活の方が、今のようなストレス過多の社会よりは人間は幸せだったかも知れない。

ユートピア

トマス・モアのユートピアという小説がある。ユートピアという小説は風刺であって、こういう社会が理想郷だと本気で主張しているのではない。Wikipediaから説明を引用すると

住民はみな白くて美しい清潔な衣装を着け、財産を私有せず(貴金属、特に金は軽蔑され、後述する奴隷の足輪に使用されている)、必要なものがあるときには共同の倉庫のものを使う。人々は勤労の義務を有し、日頃は農業にいそしみ(労働時間は6時間)、空いた時間に芸術や科学研究を行うとしている。
しかし、実際には着る衣装や食事や就寝の時間割まで細かく規定され、市民は安全を守る為相互に監視しあい、社会になじめないはぐれ者は奴隷にされるなど、現在の視点から見れば理想郷どころかディストピア(逆理想郷)とさえ言える内容となっている。

ある種の日本の学校ってユートピアだと思う。そして、そのことに異議を唱えると、大勢から叩かれるというこの社会の方がおかしいんとちゃうかと思ったりした。

そんなつまんないことを引き合いに、菅源太郎氏がダメ人間であると言うのも酷い話である。彼が本当にそういう運動をしていたとしたら、それはそれで評価されてもいい。表現手法が稚拙だったかも知れないけど、本質的にトマス・モアの疑問に近いことを感じていたはずだからね。ユートピアは共産主義への批判だとよく言われるが、トマス・モアが生きていた時代には共産主義はまだ生まれていない。おそらくモアが批判したかったのは人間の本質的愚かさであって、それが具現化したものに、なんちゃって共産主義国家であったり、一部の日本の学校である。